南山進流の近年の大徳

明治・大正・昭和にかけての声明界
普門院 理峯(りほう)師・廉峯(れんほう)師のあとを密花院 霊瑞師・東南院 寛光師・如意輪寺 弘栄師の三師が継がれましたが、三師それぞれに受法のお弟子さまがおられたのでしょうが、弘栄師のあとのみが栄えました。弘栄師のあとに真光院 寂如(じゃくにょ)師が出られました。寂如師は『声明略頌文』(しょうみょうりゃくじゅもん)を著された人です。そして、そのお弟子さまに葦原寂照(あしわら じゃくしょう)師が出られました。寂照師は明治時代の南山進流を受持され流伝されたといっても過言ではないほど影響を与えた人であります。声明に関する多くの著述を発刊された中、明治二十五年に「明治改正」として『魚山たい芥集』を出版されました。この「魚山集」は現在に至るまで南山進流声明を学ぶものにとっては欠かせない教則本であります。また、明治時代に寂照師に声明を習った人の数は計り知ることができないほどで、近代声明道において寂照師をはずしては語れない人であります。
寂照師のお弟子さまは数知れずおられますが、その中でもことにすぐれたお弟子さまに桑本真定(くわもとしんじょう)師があります。真定師と並び、高野山では宮野宥智(みやのゆうち)師・関口慈暁(せきぐちじきょう)師の二師があります。両師ともに多くのお弟子さまを出されましたが、特に宥智師のあとに大山公淳(おおやまこうじゅん)師が出られ、慈暁師のあとに岩原諦信(いわはらたいしん)師が出られました。公淳師は今まで詳しく明らかにされていなかった声明の歴史を中心として多くの研究をされ、諦信師は近代混迷していた声明理論を永年の研究を通して明らかにされました。
また、葦原寂照師から相伝されたのち重ねて桑本真定師よりも学ばれた人に鈴木智辨(すずきちべん)師と高橋圓隆(たかはしえんりゅう)師があります。
この他に、高野山三宝院の深敬師は覚証院方の声明家であり、それを受けた方に真鍋戒善(まなべかいぜん)師があります。また、松橋慈照(まつはしじしょう)師、松帆諦円(まつほたいえん)師も南山進流声明に大変労を尽くされた人であります。
進流声明の正統とは認められていなかったのかもしれませんが、報恩院の蘊善(うんぜん)師があり、多くの著書を残され、南山進流声明に大きな影響を与えられました。
高橋圓隆師のお弟子さまに、高野山親王院 中川善教(なかがわぜんきょう)師が出られ、南山進流声明の研究、指導にあたられました。
なお、高野山深敬師より覚証院方の声明を相伝された真鍋戒善師が遷化されたあと覚証院方声明の相伝は切れ、東南院方を継がれた葦原寂照師の声明が現在は主流となっています。

密宗声明の祖である寛朝僧正が入滅されたのが延喜六年(906)ですから、それから一千年、久安年間に中川寺に進流の本山をおいてから八百年の歳月が経過しました。
この永い年月を経て脈々と伝えられてきた南山進流でありますが、明治・大正・昭和の時代を相伝された諸大徳も遷化されました。
これらの諸大徳のご苦労を思うとき、南山進流声明のできるだけ正しい音律が護持され、正しい伝持の後継者を育てていくことが大切であると思います。

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